江の川今昔

文政5年(1822)、大晦日の夜、渡り村(桜江町)■三郎の居宅から出火した。近所のものが大勢かけつけ火事を消し、家の中へ入った人達はアッと驚いた。そこには■三郎一家四人が細引きで首を絞められ、息絶えた無残な姿が横たわっていた。

 早速浜田表より盗賊方田中運平一行が駆けつけ、吟味が始まり、市木村出身の△次郎が犯人として捕らえられ浜田表へ運行された。

翌六年4月22日、△次郎へ「4月26日渡り村において火あぶり」の判決が下った。刑執行の役人は、御下横目金田太郎左衛門、伊賀役杉山小平次、盗賊方田中運平、目明一人、同心二人、跡市代官所手代二人、警護役数十人の陣容が命ぜられた。

4月23日、△次郎は浜田表の牢屋を引き出され、威儀を正した役人、刺股(サシマタ),突棒(ツクボウ)、袖ガラミなど捕り物三道具を持った警護役に囲まれて浜田城下八町を引き廻され、高札場など要所では罪状と火あぶりの処刑が触れられた。

 引き廻しが終わり、△次郎は藤丸籠に入れられ浜田・三次往還を跡市村へへ向かった。跡市の町でも浜田八町と同じことが行われ、厳重な警戒がしかれた跡市代官所の牢屋に止宿した。

4月25日、渡り村へ向かった。麦尾→松尾峠→矢上→中野→牛の市→渡り村のコースか出羽村廻りか不明である。△次郎は四ヶ月前に大罪を犯した渡り村で最後の夜を迎えた。

4月26日、刑の執行は朝六ッ時(6時)より四ッ時(十時)まで火あぶり、絶命で終わった。その後三日間はそのままさら し者にされた。集まった見物人はおよそ2万人位であったという。処刑の場所の記録は無いが、渡り村で2万人の集まるところは江川の河原しかない。(写真) 対岸には銀山御領の坂本口番所があった。現在「水の国」がある河岸で、ここから三原→大家→大森への往還道があり人の集まりやすい場所であった。

江戸時代の刑罰は一罰百戒,見せしめの刑罰であり、△次郎の処刑もその通りであった。しかし、前代未聞の大事件であった が、180年後の今日、この話は古老に聞いても知らないと言う。あまりにも残酷な処刑で、見物に集まった人々が極悪非道のものだが、すでに生き地獄の苦し みを味わい息絶えて仏になったと忘却の彼方へと押しやったのだろうか。

              (澤津家文書より)

* 江津市文化財研究会会報第12号(H.13.11.30発行)より再 掲しました。
* 本ホームページへの掲載は、森脇傳先生の了解を得ていま  す。
* 人名に一部伏字を使っています。
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